×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
- 今の自分に出来る事
それは看護師としての資格を使うこと。支援物資を届けること。
2011/3/21 我々は常磐道を北上した。
2011年3月11日14時46分ごろ発生した地震は東日本に史上類を見ない広域災害をもたらした。
自分の実家は福島県双葉郡という所にある。
幸いな事に地震の被害は無く、両親も無事であった。
しかし、地元の人々や家族までもが原発の影響により避難を余儀なくされてしまう。
自分に出来る事と言えば、義援金を送ったり、日常の業務をしっかり行う事が責務だと思っていた。
毎日TVで報道される光景にただ何も出来ないまま時が過ぎていくだけ。
子供の頃に遊んだ相馬松川浦、浪江の請戸の浜、楢葉の天神岬、いわき久ノ浜・・・
記憶が頭の中を駆け巡る。
映像を見て自然と眼から何かが流れてくる。俺ってこんなにも泣ける奴だったのか。
悔しくて悔しくて仕方が無かった。
自分に何か出来る事はないだろうか・・・ずっと考えていた。
3月17日
自分を抑える事ができずに上司に話をした。
休みが欲しいんです、来月4月からでもお願いできないかと。
上司は、そんな事だろうと思って調整しておいたよ、
4月からは無理だけど4日後(3月21日)からならいいよと言ってくれた。
ありがたかった、初めて人前で声を出して泣いた。
上司は部屋の電気を消して一人にして出て行った。
休みは取れることになったものの、問題が2つあった。
どこに行くか決定していなかった事。
看護職の災害活動は事前に看護協会で災害医療の研修を受け、派遣要請があった場合に該当する。
いわゆる災害派遣ナースというシステムに自分は当てはまってはいない。
もちろんそれは一つのルーチンに過ぎず、後に活動の場所はすぐに決定した。
そしてもう一つは、
出発までの期間が短すぎて移動手段の手配が付かない事だった。
福島へ向かう鉄道は全面ストップ。東北道、常磐道も通行止め。
ガソリンも手に入らない状況で自分の車は危険。
そんな時に同じく福島へ向かおうと試みている
Twitterでやり取りしていたalltamuraTVさんと連絡を取ってみた。
物資を運んで緊急車両と言う事なら高速道路も通行許可が出る可能性がある。
もしもダメなら一般道で入るしかない。
とにかく困っている病院や施設に物資を運ぼうという事になった。
看護部長に相談すると、オムツなど幾らかの物資を提供してもらえる事ができた。
3月19日
被災地へ向かう為の準備。
1週間分の食料や寝袋、血圧計、体温計などの備品を購入。
SpO2モニターは貸してもらう事が出来た。
3月20日出発前日
この日は夜勤入り。夜勤に備えて寝ていると、午前中携帯電話に着信が入った。
登録されていない番号だったが電話に出てみると、相手は病院長だった。
「福島に行くんだって?頑張って来い、俺が何とかしてやる、必要なものは全部揃えるから」と。
警察署への電話連絡、緊急車両の手続きに必要な書類まで準備して頂いてしまった。
職場へ出勤すると、大量の救援物資が用意されており、
封筒にガソリン代までが入っていた。
個人的に行く予定だったはずが、いつの間にか病院のバックアップが整っていた。
これはもう感謝しきれない。やるしかない。
3月21日出発当日
夜勤明け、気が張っているためか全く眠くはなかった。
都内の職場までalltamuraTVさんが迎えに来てくれた。
alltamuraTVさんの娘さんが学校で物資を呼びかけて歯ブラシや生理用品なども集めて来てくれていた。
本当に感謝です。
物資を積み込み、一緒に夜勤をしていた主任らに見送られ、我々は福島へと向かった。
当日の天候は雨。
Twitterで情報を収集しながら常磐道を北上する。
物資が行き届いていない施設の情報を得て、施設へ直接電話をしてみる。
「水道が復旧していないので水があれば・・・入所者の口腔ケアに使えるものがあれば頂きたい。」
との返答あり。
1件目の施設へ向かう。
いわき市内は閑散としていたが、全く人出が無い訳ではなかった。
ただガソリンを求める車の列が状況を知らせているようだった。
電話連絡してあった施設に到着。
いわき市内の孤立し緊迫した状況を職員の方から聞かされる。
電気水道ライフラインがストップ、国や行政からの情報も無し。
そんな中で必死に頑張っていたと・・・
話しながら涙をこらえる姿が脳裏に焼きつく。
次に物資を持って行く施設の名前を告げると、
「○○さんの施設の方が困っていると思いますので、私たちはこれだけ頂ければ良いです、
そちらに持って行ってあげて下さい」
困っている中での譲り合いが心に響いた。
2件目の施設へと向かう。こちらも電話連絡を事前にしてあった。
道はあって無いようなものだからお気をつけて。と言われた通り、
豊間地区周辺は津波被害が甚大なものであった。
2件目の施設にも物資を無事に引き取って頂く事ができた。
高台にあって難を逃れたが、ライフラインは断絶。
地震から8日後にようやく電気が復旧したが、未だ水道は復旧していない。
職員の家も流され、帰ることも出来ない状況で必死に入所者を守っていました。
いわき市内の救援物資は一度、競輪場に集められるが、行政から配送されるわけではなく
自分達で取りに行かなくてはならない現状。ガソリンも手に入らない為取りにも行けないと。
やはり人的パワーが不足している。(2011/3/21現在)
行政のHP等では個人物資の受付は禁止とされていたが、
事前に直接電話で必要なものを確認してもって行けば、
それは必要とされるものだという事がわかった。
いわき市内の2箇所の施設を訪れてから田村市へ向かい床についた。
私はすぐに眠ってしまったようだ。
船引町の施設や、石森小学校などの避難所へ紙オムツなどの物資を届ける。
田村市内でも物資は充足していなかったようだ。
役所に物資が届いても、搬送に時間がかかってしまうらしい。
2日目以降は、alltamuraTVさんと別行動となる。
別れた後も物資を他の場所にも届けていただいていた。
自分は田村市の社会福祉協議会へ電話を掛け、看護師を必要としている場所を依頼していた。
すぐに返答あり、今すぐ来て欲しいと要望を受ける。
主に原発の避難区域に入る双葉郡大熊町の人達が避難している田村市総合体育館へ。
次から次へと医務室を訪れる避難している人達のカルテを作成したり、
バイタル(体温や血圧など)の測定、症状の確認作業を行った。
着の身着のまま逃げてきた人達が多いので、お薬手帳なども持っている人は少ない。
病院とは違う為、判断を仰ぐ上司も居ない。
戸惑う事もあったが個々の状況をしっかりと見極めなければならなかった。
幸いに医師がいた事、私よりも前に入っていたスタッフが環境を整えていた事が救いだった。
郡山から薬を持ってきてくれるボランティア薬剤師の存在も大きかった。
これからボランティア活動を考えている人はまず電話をしてみるのが良いと思います。
家族に会うために郡山へ。
富岡町、川内村からの避難者がいるビッグパレットの状況を確認する。
やはり状況は厳しい。
ビッグパレットは収容人数も多く、規模が大きい。
診療所の状況を見ると、田村市総合体育館の現状のほうが思わしくないと判断。
再び船引町へ戻ることとした。
東京電力の役員達が謝罪に訪れていた。
無視する人、怒りをあらわにする人。
このカットを掲載するべきかどうか考えたけれど、事実を闇に葬る事はしない。
電力会社の人達も決して悪気があったとは思わない。
しかし、企業としての責任は重い。しっかりと住民への謝罪と補償がされるべきだ。
もちろん、国の責任もだ。
自分だって実家、故郷の土地を安心してもう一度踏みしめたい。
ビッグパレット駐車場。車で避難してきた人も多いようだ。
近くのコンビニには商品がほとんど置かれていない状態だった。
幹線道路沿いの郡山ですらこの状況なので、田村市内はさらに物流が停滞していた。
避難区域では無いものの、放射線が怖くて配送ドライバーが入ってこないらしい。
郡山の兄宅にて。見ての通りに塀が崩れたり、家の外壁が剥がれたりする被害があった。
4日目以降は田村市に戻り医務室の手伝いを続けた。
避難所では自衛隊の方々も懸命に働いていた。
お風呂など準備していただけるのはとてもありがたいことだ。
自分も勧められるがままに一度利用させていただいたが、シャワーも完備されていて
とても良い設備だった。
避難生活を続けていると、様々な症状が出てくる。
特に深刻だったのが風邪症状などの感染症。
暖房も早朝と夕方しか使えずに節約されているし、
体育館の冷たい床に布団をひいて寝ているために身体も冷えてしまう。
結果体力も消耗し、特に高齢者には厳しい状態が続いていた。
トイレに行くのを抑える為に水分をあまり取らない人もいるために、悪循環に陥る。
持病を抱えている人も多くいるために、医務室では対応できない場合も多い。
大熊町の公用車で、田村市内や三春町の病院へ向かい受診をする。
そのまま入院になるケースもあり、入院や病院と保健師と連携の調整を行った。
プライバシーなどの問題。
くしゃみ、咳をしただけでも周りに迷惑をかけているのではと萎縮してしまう場合もある。
認知症や自閉症の家族がいるケースもある。
周りに迷惑をかけてしまっていると考えストレスを抱えてしまう。そして自分を責める。
他の避難者と一緒にいてはいけないのではないかと考え、避難所から出てしまう事もある。
個室などを用意するにも限界があるためなかなか難しい。
この点についても早急な対応が必要だと感じた。
3月も半ばを過ぎているのにどんどん雪が降ってくる。
当然気温はぐっと下がっていく。
ガソリンを求める長い列。
病院に受診したくてもガソリンが無い為に移動が困難という人が多い。
もちろん大熊町の車両も例外ではない。
避難区域で警ら活動をしているのだろうか。奈良県警の車両が走っていた。
地震と津波があった翌日に防災無線で公民館へ避難するように指示があり
集合したらそのままバスに乗って避難所へ移動した。
原発の話は一切なかった。
誰もが2~3日で帰れるものだと思っていた。
預金通帳や保険証、車など必要なものをもってくる術がなかったとの事。
町民に会津若松への異動、貸付金などについて説明する大熊町長。
いつになったら帰れるんだ。とにかく一時帰宅をさせてもらって生活に必要なものを取りに行きたい。
新しい生活を始めるにしても家財道具を買わなくてはならないし、移動のための車も無い。
一つ一つの質問にしっかりと答える町長。どこかの役人の言葉よりも重く心に届くものでした。
こんな状況下でも明るく気丈に振舞おうとしていた人々。
地震や津波、原発の事はほとんど口に出していなかった。
声を掛けても笑って答えてくれる。
しかし、皆同様に話していたのは「いつになったら帰れるのか」と言う事だった。
住民の切実な願いは、故郷に帰りたい、そして普通の生活を続けたいという事だ。
原発問題に終止符が打たれ、必ずやその日が訪れる事を心から願ってやまない。
問題点と感じた事をいくつかピックアップする。
1.ある程度日を追うごとに物資は充足してくるが、仕分けて届けるための人員が不足。結果、ダメージの大きい施設なども自ら物資を取りに行かなくてはならなかった。(2011/3/21~3/27の状況)
2.長期に渡り避難生活を続けていくと感染症などが増加する。災害直後に行われる迅速な救命活動も重要な位置づけとなるが、避難後の健康管理に従事する医療スタッフの補充も必要。圧倒的に人員が不足しスタッフが休息を取れずに体調を崩してしまう。
第一線での医療スタッフの派遣と共に、健康管理に携われるスタッフも求められる。
理想を言えば、シフト制を組めてスタッフにも休息を与える事が必要。
*私がいた田村市総合体育館には県や国、看護協会などから派遣された医療スタッフは一人も来ていなかった(医師1名を除く)。有志ボランティアに委ねている現状、これは大きな問題だ。
4.避難者の中には、痴呆や精神疾患、自閉症などの家族を抱える者も多く、周囲への配慮からストレスを抱えたり、避難所を退所してしまうケースも見られた。
震災直後には難しいかもしれないが、プライバシーの配慮など個別の事案にも適応できるような事が必要だ。
3.厚生労働省から心のケアチームなどが派遣されてきたが、1度だけではなく継続的に続けていただく事が必要。
お世話になった大熊町、田村市職員の方々
ボランティアスタッフの皆様、本当にありがとうございました。
先行きの見えない状況ですが、大熊町、双葉郡、福島県、東北のみなさま
どうか体調に気をつけてお過ごしください。
短い期間だったけれど、本当に考えさせられ学ぶことが多い日々だった。
この経験は生涯忘れない。
この状況はまだ始まったばかりだ。これからの支援がとても重要になってくる。
復興まで私自身できる事を続けていこうと思う。
自分の実家は福島県双葉郡という所にある。
幸いな事に地震の被害は無く、両親も無事であった。
しかし、地元の人々や家族までもが原発の影響により避難を余儀なくされてしまう。
自分に出来る事と言えば、義援金を送ったり、日常の業務をしっかり行う事が責務だと思っていた。
毎日TVで報道される光景にただ何も出来ないまま時が過ぎていくだけ。
子供の頃に遊んだ相馬松川浦、浪江の請戸の浜、楢葉の天神岬、いわき久ノ浜・・・
記憶が頭の中を駆け巡る。
映像を見て自然と眼から何かが流れてくる。俺ってこんなにも泣ける奴だったのか。
悔しくて悔しくて仕方が無かった。
自分に何か出来る事はないだろうか・・・ずっと考えていた。
3月17日
自分を抑える事ができずに上司に話をした。
休みが欲しいんです、来月4月からでもお願いできないかと。
上司は、そんな事だろうと思って調整しておいたよ、
4月からは無理だけど4日後(3月21日)からならいいよと言ってくれた。
ありがたかった、初めて人前で声を出して泣いた。
上司は部屋の電気を消して一人にして出て行った。
休みは取れることになったものの、問題が2つあった。
どこに行くか決定していなかった事。
看護職の災害活動は事前に看護協会で災害医療の研修を受け、派遣要請があった場合に該当する。
いわゆる災害派遣ナースというシステムに自分は当てはまってはいない。
もちろんそれは一つのルーチンに過ぎず、後に活動の場所はすぐに決定した。
そしてもう一つは、
出発までの期間が短すぎて移動手段の手配が付かない事だった。
福島へ向かう鉄道は全面ストップ。東北道、常磐道も通行止め。
ガソリンも手に入らない状況で自分の車は危険。
そんな時に同じく福島へ向かおうと試みている
Twitterでやり取りしていたalltamuraTVさんと連絡を取ってみた。
物資を運んで緊急車両と言う事なら高速道路も通行許可が出る可能性がある。
もしもダメなら一般道で入るしかない。
とにかく困っている病院や施設に物資を運ぼうという事になった。
看護部長に相談すると、オムツなど幾らかの物資を提供してもらえる事ができた。
3月19日
被災地へ向かう為の準備。
1週間分の食料や寝袋、血圧計、体温計などの備品を購入。
SpO2モニターは貸してもらう事が出来た。
3月20日出発前日
この日は夜勤入り。夜勤に備えて寝ていると、午前中携帯電話に着信が入った。
登録されていない番号だったが電話に出てみると、相手は病院長だった。
「福島に行くんだって?頑張って来い、俺が何とかしてやる、必要なものは全部揃えるから」と。
警察署への電話連絡、緊急車両の手続きに必要な書類まで準備して頂いてしまった。
職場へ出勤すると、大量の救援物資が用意されており、
封筒にガソリン代までが入っていた。
個人的に行く予定だったはずが、いつの間にか病院のバックアップが整っていた。
これはもう感謝しきれない。やるしかない。
3月21日出発当日
夜勤明け、気が張っているためか全く眠くはなかった。
都内の職場までalltamuraTVさんが迎えに来てくれた。
alltamuraTVさんの娘さんが学校で物資を呼びかけて歯ブラシや生理用品なども集めて来てくれていた。
本当に感謝です。
物資を積み込み、一緒に夜勤をしていた主任らに見送られ、我々は福島へと向かった。
- いわき市へ
当日の天候は雨。
Twitterで情報を収集しながら常磐道を北上する。
物資が行き届いていない施設の情報を得て、施設へ直接電話をしてみる。
「水道が復旧していないので水があれば・・・入所者の口腔ケアに使えるものがあれば頂きたい。」
との返答あり。
1件目の施設へ向かう。
いわき市内は閑散としていたが、全く人出が無い訳ではなかった。
ただガソリンを求める車の列が状況を知らせているようだった。
電話連絡してあった施設に到着。
いわき市内の孤立し緊迫した状況を職員の方から聞かされる。
電気水道ライフラインがストップ、国や行政からの情報も無し。
そんな中で必死に頑張っていたと・・・
話しながら涙をこらえる姿が脳裏に焼きつく。
次に物資を持って行く施設の名前を告げると、
「○○さんの施設の方が困っていると思いますので、私たちはこれだけ頂ければ良いです、
そちらに持って行ってあげて下さい」
困っている中での譲り合いが心に響いた。
2件目の施設へと向かう。こちらも電話連絡を事前にしてあった。
道はあって無いようなものだからお気をつけて。と言われた通り、
豊間地区周辺は津波被害が甚大なものであった。
2件目の施設にも物資を無事に引き取って頂く事ができた。
高台にあって難を逃れたが、ライフラインは断絶。
地震から8日後にようやく電気が復旧したが、未だ水道は復旧していない。
職員の家も流され、帰ることも出来ない状況で必死に入所者を守っていました。
いわき市内の救援物資は一度、競輪場に集められるが、行政から配送されるわけではなく
自分達で取りに行かなくてはならない現状。ガソリンも手に入らない為取りにも行けないと。
やはり人的パワーが不足している。(2011/3/21現在)
行政のHP等では個人物資の受付は禁止とされていたが、
事前に直接電話で必要なものを確認してもって行けば、
それは必要とされるものだという事がわかった。
いわき市内の2箇所の施設を訪れてから田村市へ向かい床についた。
私はすぐに眠ってしまったようだ。
- 2日目から
船引町の施設や、石森小学校などの避難所へ紙オムツなどの物資を届ける。
田村市内でも物資は充足していなかったようだ。
役所に物資が届いても、搬送に時間がかかってしまうらしい。
2日目以降は、alltamuraTVさんと別行動となる。
別れた後も物資を他の場所にも届けていただいていた。
自分は田村市の社会福祉協議会へ電話を掛け、看護師を必要としている場所を依頼していた。
すぐに返答あり、今すぐ来て欲しいと要望を受ける。
主に原発の避難区域に入る双葉郡大熊町の人達が避難している田村市総合体育館へ。
次から次へと医務室を訪れる避難している人達のカルテを作成したり、
バイタル(体温や血圧など)の測定、症状の確認作業を行った。
着の身着のまま逃げてきた人達が多いので、お薬手帳なども持っている人は少ない。
病院とは違う為、判断を仰ぐ上司も居ない。
戸惑う事もあったが個々の状況をしっかりと見極めなければならなかった。
幸いに医師がいた事、私よりも前に入っていたスタッフが環境を整えていた事が救いだった。
郡山から薬を持ってきてくれるボランティア薬剤師の存在も大きかった。
これからボランティア活動を考えている人はまず電話をしてみるのが良いと思います。
- 3日目
家族に会うために郡山へ。
富岡町、川内村からの避難者がいるビッグパレットの状況を確認する。
やはり状況は厳しい。
ビッグパレットは収容人数も多く、規模が大きい。
診療所の状況を見ると、田村市総合体育館の現状のほうが思わしくないと判断。
再び船引町へ戻ることとした。
東京電力の役員達が謝罪に訪れていた。
無視する人、怒りをあらわにする人。
このカットを掲載するべきかどうか考えたけれど、事実を闇に葬る事はしない。
電力会社の人達も決して悪気があったとは思わない。
しかし、企業としての責任は重い。しっかりと住民への謝罪と補償がされるべきだ。
もちろん、国の責任もだ。
自分だって実家、故郷の土地を安心してもう一度踏みしめたい。
ビッグパレット駐車場。車で避難してきた人も多いようだ。
近くのコンビニには商品がほとんど置かれていない状態だった。
幹線道路沿いの郡山ですらこの状況なので、田村市内はさらに物流が停滞していた。
避難区域では無いものの、放射線が怖くて配送ドライバーが入ってこないらしい。
郡山の兄宅にて。見ての通りに塀が崩れたり、家の外壁が剥がれたりする被害があった。
- 再び田村市の避難所へ
4日目以降は田村市に戻り医務室の手伝いを続けた。
避難所では自衛隊の方々も懸命に働いていた。
お風呂など準備していただけるのはとてもありがたいことだ。
自分も勧められるがままに一度利用させていただいたが、シャワーも完備されていて
とても良い設備だった。
避難生活を続けていると、様々な症状が出てくる。
特に深刻だったのが風邪症状などの感染症。
暖房も早朝と夕方しか使えずに節約されているし、
体育館の冷たい床に布団をひいて寝ているために身体も冷えてしまう。
結果体力も消耗し、特に高齢者には厳しい状態が続いていた。
トイレに行くのを抑える為に水分をあまり取らない人もいるために、悪循環に陥る。
持病を抱えている人も多くいるために、医務室では対応できない場合も多い。
大熊町の公用車で、田村市内や三春町の病院へ向かい受診をする。
そのまま入院になるケースもあり、入院や病院と保健師と連携の調整を行った。
プライバシーなどの問題。
くしゃみ、咳をしただけでも周りに迷惑をかけているのではと萎縮してしまう場合もある。
認知症や自閉症の家族がいるケースもある。
周りに迷惑をかけてしまっていると考えストレスを抱えてしまう。そして自分を責める。
他の避難者と一緒にいてはいけないのではないかと考え、避難所から出てしまう事もある。
個室などを用意するにも限界があるためなかなか難しい。
この点についても早急な対応が必要だと感じた。
3月も半ばを過ぎているのにどんどん雪が降ってくる。
当然気温はぐっと下がっていく。
ガソリンを求める長い列。
病院に受診したくてもガソリンが無い為に移動が困難という人が多い。
もちろん大熊町の車両も例外ではない。
避難区域で警ら活動をしているのだろうか。奈良県警の車両が走っていた。
- 大熊町避難の現状
地震と津波があった翌日に防災無線で公民館へ避難するように指示があり
集合したらそのままバスに乗って避難所へ移動した。
原発の話は一切なかった。
誰もが2~3日で帰れるものだと思っていた。
預金通帳や保険証、車など必要なものをもってくる術がなかったとの事。
町民に会津若松への異動、貸付金などについて説明する大熊町長。
いつになったら帰れるんだ。とにかく一時帰宅をさせてもらって生活に必要なものを取りに行きたい。
新しい生活を始めるにしても家財道具を買わなくてはならないし、移動のための車も無い。
一つ一つの質問にしっかりと答える町長。どこかの役人の言葉よりも重く心に届くものでした。
こんな状況下でも明るく気丈に振舞おうとしていた人々。
地震や津波、原発の事はほとんど口に出していなかった。
声を掛けても笑って答えてくれる。
しかし、皆同様に話していたのは「いつになったら帰れるのか」と言う事だった。
住民の切実な願いは、故郷に帰りたい、そして普通の生活を続けたいという事だ。
原発問題に終止符が打たれ、必ずやその日が訪れる事を心から願ってやまない。
問題点と感じた事をいくつかピックアップする。
1.ある程度日を追うごとに物資は充足してくるが、仕分けて届けるための人員が不足。結果、ダメージの大きい施設なども自ら物資を取りに行かなくてはならなかった。(2011/3/21~3/27の状況)
2.長期に渡り避難生活を続けていくと感染症などが増加する。災害直後に行われる迅速な救命活動も重要な位置づけとなるが、避難後の健康管理に従事する医療スタッフの補充も必要。圧倒的に人員が不足しスタッフが休息を取れずに体調を崩してしまう。
第一線での医療スタッフの派遣と共に、健康管理に携われるスタッフも求められる。
理想を言えば、シフト制を組めてスタッフにも休息を与える事が必要。
*私がいた田村市総合体育館には県や国、看護協会などから派遣された医療スタッフは一人も来ていなかった(医師1名を除く)。有志ボランティアに委ねている現状、これは大きな問題だ。
4.避難者の中には、痴呆や精神疾患、自閉症などの家族を抱える者も多く、周囲への配慮からストレスを抱えたり、避難所を退所してしまうケースも見られた。
震災直後には難しいかもしれないが、プライバシーの配慮など個別の事案にも適応できるような事が必要だ。
3.厚生労働省から心のケアチームなどが派遣されてきたが、1度だけではなく継続的に続けていただく事が必要。
お世話になった大熊町、田村市職員の方々
ボランティアスタッフの皆様、本当にありがとうございました。
先行きの見えない状況ですが、大熊町、双葉郡、福島県、東北のみなさま
どうか体調に気をつけてお過ごしください。
短い期間だったけれど、本当に考えさせられ学ぶことが多い日々だった。
この経験は生涯忘れない。
この状況はまだ始まったばかりだ。これからの支援がとても重要になってくる。
復興まで私自身できる事を続けていこうと思う。
PR
ツーリングの記録
最近の記事
(12/28)
(11/29)
(11/17)
(03/15)
(03/04)
(08/21)
(10/06)
(09/22)
(09/12)
(07/15)
リンク
アーカイブ
Twitter
Facebook
サイト内検索
About